左脳、死んでも生きてるってよ

障害者でもないが健常者でもない。普通でもなければ異常にもなれない日々。

12万の一瞬の死から

ずいぶんと時間が経った。

未だにコロナウイルスは活動し、マスクをするのが日常になった。

世界中に蔓延し、もはや「ウイルスとの共存」という言葉が浸透しつつある昨今。

 

わたしも長い間「毒との共存」を強制的に押し付けられてきた。その毒とは血が繋がっており、世間では「母親」と言う。

 

小さい頃の記憶はどれも母親が怒っている、イライラしているものしかない。「ごめんなさい」と謝っても「ごめんなさいじゃない!」。黙っていると「黙ってないでなんか言いたいことあるなら言いなさいよ!」。「言いたいことがあるなら言え」と言う人は「言いたいことを言ったら聞いてくれる」わけではないと学んだ。

 

わたしは言葉を使えなくなって、いつも泣いた。大人になっていくにつれて泣くのもやめて言いたいことがわからない大人になった。自分の心の声が聞こえない大人は大変だ。できない仕事を断れない、やりたくない恋人の頼みを断れない、母親の文句の何手先も読んで文句を言わせないようにやりたくないことをやっておく、不快な事を他人に言われても笑ってごまかす。そんなことをしているうちにだんだんと心が死んでいく声も聞こえなくなるくらいにわたしは言葉を失っていった。

 

そのうち生活に支障をきたす。仕事はわからないことがわからない、わからないことを聞けない、できないことをできると言ってしまい嘘をついて辻褄を合わせようとする、恋人の顔色を伺ってビクビクする、なにか指摘をされても言葉にできず泣いてしまう、友達にはバカにされる、頼まれたことをやっても感謝されない、なにも自分の気持ちが届かない。毎晩金縛りにあい、毎日電車の中で涙が止まらなくなった。それが2年の時間をすり潰した。

 

積もりに積もったものが重くなってきてなにかがぽきんと折れた。「お金がかかるならやめてください!!怒られてしまうのでやめてください!!」そう叫びながら救急車に押し込まれた。不眠症の薬と酒をめちゃくちゃに飲んで腕を刃物でめちゃくちゃにしたのだ。

 

目が覚めるとベッドと見知らぬ天井。無言で朝食が出てきた。メロンがあったような記憶がある。姉と母親が見舞いに来た。母親の第一声。

 

「こんな事に12万もかかったのよ!!」

 

「こんな事」をしてまでわたしは生きねばならなかったんだろうか。「生まれたいです!お願いします!!」とわたしは精子の時に卵子に懇願したのだろうか?その証明があればください。

 

そんなことを思いながらすり潰された想いなど知らんというように日常は時を刻んでいくのだった。