左脳、死んでも生きてるってよ

障害者でもないが健常者でもない。普通でもなければ異常にもなれない日々。

毒親育ち陰キャが美しさに奔走する前夜

陰キャ

 

という言葉がありますがわたしはまさにそれでありまして休日は絶対に外に出ない、BBQが嫌い、夏が好きな奴が嫌い、バレンタインハロウィンクリスマスありとあらゆるカタカナの輸入文化に対して斜に構えていた。

 

人が喋っているのを見ると自分の悪口を言われているのではと不安になるし、化粧をしても「どうせ誰も自分なんか見てない」と泣き出す。ストレスで2年涙が止まらなくなり、毎日金縛りにあった。泣いた翌日にはいわゆる「お岩さん」状態でボコ殴りされたんか?というくらい目が腫れて、それもまた惨めな気持ちに拍車をかけた。

 

男女混合グループを淫乱仮想青春ごっこ野郎たちとなじり、実家が金持ちの奴を恨めしく呪い、顔面が整った人間を「人生イージーモードあざっした〜〜はいはいパパ活がんばってね〜〜」と煽る。

 

いろんな種類の漆黒で絶望的な気持ちを溜め込んでは膨大な大きさに膨らんでいった。

理由は実にシンプル。自分に自信がない。

小さい頃から「男の子みたい」「お父さんは男の子が欲しかったから」「お前はふりふりの服なんて似合わない」と小さな呪いの積み重ねが頭から爪先まで充満した。「好きな色は?」と言われてもわからなかった。とりあえず、お姉ちゃんはピンクか赤が好きだから喧嘩にならないように「青」と言った。

 

1年弱で15kgも2人、タイトなジーンズにねじ込む前にボーイズデニムにねじ込みはじめた。大変醜く、重力に負け続けたたるみは「おばさん」そのものだった。自分の体がどうしても好きになれない。手の指から扁平足の足まであらゆるものが「美しさ」から遠いものにしか思えず鏡から目を逸らすばかりだ。

 

「太ったらなにか他人に迷惑かけてますか?美味しいものをおいしくいただくことはすてきなことですよ」

カウンセラーの先生がいう

 

そうなのだ。仕事場でもいろんな身長、体型の人がいて、そういう人がデブとか細いとか思わない。かわいい、素敵だと思える。それでも自分は太ったらもう死んだほうがいいと思うし、肌が荒れたらもう終わりだと思うし、自分に対しての美のハードルが高すぎるのは自覚している。でも、本当にそうしないと自分は自分だと堂々とできない。が、そんな日が来たことはない。ずっと便秘がちなことも、小鼻が大きいことも、手足が短く太いことも致命傷かと思うくらいずっと嫌なのだ。基本的に自分は心身共に人よりも劣っているから人よりもっともっと高いレベルてがんばらないと相手にされない、そんな中で見た目の「デブ」というものが加算されたらひとたまりもない。欠陥ばかりが増える気がして気が気じゃない。

 

それでも冷凍のパスタを無性に食べたくなるし、お昼を食べたのにまた定食とか食べ出したり信じられないくらい頭は「食べる」ことに執着していて怖くなる。

 

きっとこの価値観の歪みを変えない限り、自分は何億光年先くらいの理想の自分を掲げて追いつくはずもないまま死ぬんだろう。

 

まだ、もう少し、間に合うか、「自分は自分として生きていることが美しい!」そう思える瞬間を見つけたい。