左脳、死んでも生きてるってよ

障害者でもないが健常者でもない。普通でもなければ異常にもなれない日々。

金曜日だけ17時にバイトを上がらせてほしい

「おはようございます」

そのときは完全な夜。

でも「おはようございます」なのだ。

 

演技レッスンに行くとき、まだまだ挨拶が恥ずかしい。なんか業界人ぶってる気がして。でも「おはようございます」は「おはようございます」なので、それに習う。前に業界の挨拶がなんでいつでも「おはようございます」なのか理由を知ってたんだけど忘れてしまった。

 

毎週金曜日の夜に集まって与えられたシーンの台本を読んだり、訓練的なことをする。訓練の中に「アリになってセリフをいう」とかがあるんだけど普通に恥ずかしくなってしまった。羞恥心があってはいけないのだ、と先生が言う。そりゃそうだ。羞恥心がある自分が恥ずかしくなってしまう。

 

昔の自分は羞恥心をかき殺すかのようにとにかく常軌を逸した気合いで恥ずかしいことを積極的にやってのけた。そのときは自己肯定感が底辺だったから、人と違うことをなにかしてないと落ち着かなかったんだと思う。なんだか歳をとったなと思った。

 

なにをやってもなんだか違う気がする。自分の外側の着ぐるみだけ動いてるような気持ちがする。なにをしてもダメのような気がする。なにをしても人より劣ってる気がする。

 

「表現」とか誰のためにもならん、社会のためにも金にもならん、けどそういうことにしか興味がないから、やるしかない気がしてる。誰かを救ったり、社会のためになることは他の人がやってくれている。世界の一部くらい無駄な部品があったっていいじゃないか。それくらいが、「粋」ってもんじゃあないか。

 

社会の無駄を背負う。どうせ無駄なら無駄を背負う。なんか、どこかに自分の総合結果みたいな、ぴったりハマる世界のスキマがあって、そのスキマにハマるまで変形し続けてんじゃないかと思う。それがいいことかわからないが、もう元々「普通」からはみ出た人生。はみ出し続けたらどうなるのか、先を見てみたくなった。