左脳、死んでも生きてるってよ

障害者でもないが健常者でもない。普通でもなければ異常にもなれない日々。

縁の下の力持ちを辞めた日

実は今年から演劇教室に通い始めた。

元々大学の時にそういうのを少しやったのだけれど、人間関係と男女関係のもつれなどがあり自然消滅してしまった。それ以来、ちゃんと脚本を読む演劇というのは遠ざかっており、我ながら破壊的なパフォーマンスをしたりしていた。

 

演劇をしていた頃は、とにかく楽しかった。自分はずっと「縁の下の力持ち」「裏方稼業」「表に出てはいけない人間だ」という呪いがあった。その呪いはまた発祥の根源は家族。姉は身長が高く友達が多かったのでとても学校で目立つ感じのグループだった。セーラームーンが大好きな子供で、常に流行りの遊び、流行りのアニメのメインキャラが好きなような人間だった。私はセーラームーンだとセーラーマーキュリーが好きだった。そんな姉がメインキャラになるためいつも付き合わされていた。メインキャラは姉のもの、自分は添え物、という価値観が自然と身についたんだと思う。あと流行りの遊びだとか鬼ごっこだとかいう活発な遊びに死ぬほど興味がなかった。ポケモンも姉が2バージョンプレイするため自分もなんとなくやるという感じで、可愛いポケモンだけ集めてストーリーを進めることがすごく面倒だった。だからポケモンは全クリしたことがない。じゃあ何してたのかというと、絵を描くこととシルバニアファミリーだ。シルバニアもとにかく一人で延々と模様替えをして、「好きな男の子がお見舞いに来る」という設定のストーリーをひたすらやっていた。あとはCMのモノマネを鏡で見てこっそりやっていた。ただ、誰にもバレてはいけない。自分なんかが「メインキャラになりたい」という願望は悪いことだと思っていた。とにかく一人でいつでも始められて、一人でいつでもやめられる遊びをしていた気がする。そういう幼少期から、家族からは「縁の下の力持ちだね」とか言われて、全く嬉しくないんだけど自分はそういうパーツでしかないんだと思っていた。バンドだったらベースかドラム。誰かを支えることでメインキャラを引き立たせる。そういうパーツ。

 

でも、本当はボーカルギターがやりたかった。本当は人前に出たいという欲求をずっと言語化しないまま成長した。

 

なんとなく、演劇をやってみたら今までのことが嘘みたいに、褒められた。

誰も私を否定しなかった。衝撃だった。

常に人から否定し、自分も自分のことを拒み続けていたのに、初めてみんなに褒められた。私は誰かのパーツではない。

それは人生がひっくり返った瞬間だった。

それからとてもエネルギーに満ち溢れていた。積極的に映画やショートムービーなど作ったり、誰かのものに出演したりした。それも褒められて、本当にびっくりした。

 

しかし、長くは続かなかった。仲良しで信頼して所属していた劇団が、一人「こういう馴れ合いがすごく嫌」と言いだしたことからほころびが生じ、一人、また一人、といなくなり、一瞬で自然消滅した。私は「仲が良くて大好き」「一緒にいて楽しい」と思ってた人たちが、私がそう思っている中で嫌な気持ちになっていたことが信じられなくて、とてもショックを受けた。2度とそのメンバーで集まることはなかった。そこから男女関係のもつれなどに陥って傷ついた。かなり深く、確実に裏切られ、傷ついた。

 

そこから段々と呼吸が苦しかったり無気力になったり、眠れないという身体的な変化が出始めた。ついに味覚がなくなり、左脳が死んだ。

左脳が死んでからも、「私は怠けているだけ」という無駄な根性でアルバイトや交友関係、恋愛、何もかもかなり無理をして、それもまた何も報われず誰にも響かないということが続いた。虚しい。ただ虚しさだけが津波のように全ての感覚をさらっていった。ただ心臓が動いて、呼吸をしている、ただの肉体としてだけ存在していた。

 

それくらい心が死んでしまっても時間だけは動いてた。もう就職活動なんて単語が飛び交うようになり、とにかく何かで成功したぞ!って言えるものが欲しくて、またここからスタートだ!という分岐点が欲しくて就活した。でも本心では「会社に勤めるということが全く理解できない」でいた。お金を稼ぐこと、社会に貢献すること、会社で成長することに死ぬほど興味がなかった。だから面接はコント感覚だったのでできたのでいいところまでは行くのだけどそもそも会社で働くこととか会社に貢献するとかに意味を感じてないから当然落ちた。「当然だ」と思っているのに就活を続けた。

 

心はかなり死んでいた。持ち前の「根性」が強すぎて「本当の自分」に気づけずに突っ走った結果、左脳が死んだ。

 

だから、色々なことの発端は「演劇」だったのかもしれない。

それをまたやることに何も意味がないのかもしれない。でも私は誰かのパーツではないから、それに気づかせてくれたものが「演劇」だから、この先に何もなくても、今、この瞬間の命をやりきるまで今まで見過ごしてきたたくさんの「自分」を削り、掘り起こしてあげなきゃいけないんだと思う。

 

命をどう使い果たすか、まだ、間に合うだろうか。