左脳、死んでも生きてるってよ

障害者でもないが健常者でもない。普通でもなければ異常にもなれない日々。

書けないけど途中からバチェラーについて語り出すけどネタバレしないから大丈夫の記事

書けない。

書けない書けない書けない。

書けない。

 

いやいや、個人ブログごときにハードルを高く持ちすぎい!こんなんじゃ〜10年後〜とかになるわ!という気持ちで文章を書く。プロでもないのになににでもハードルを高く設定して「できない!できない!」と怖がる性質がある。なにをしても評価されなかった・比べられて劣っていると判断されたことが多く、それを唯一救ってくれるのが絵だった。しかしそれすらも3年歳上の姉と比べられた。ちょっと待って?だって3年生きてる年数違うんだよ?そんなの生きてる年数が多い方が上手いに決まってない?そこで比べるのおかしくない?今ならそう思えるけれど当時は「姉こそが全ての正解」だったから、永遠に正解できない問題に全力で立ち向かっていたのかと思うとなんともいじらしいと我ながら思ってしまう。当時出会った人たちも「たまたま」悪かっただけで「たまたま」傷ついて私のパーソナリティを歪ませたけれど「たまたま」だからと言っても、許すまじ。これを許したら最期、死だ。

 

Amazonプライムの「バチェラージャパン」にハマってたんだけど、その2を観終わりました。1よりバチェラーの動きも読めなくて面白かった。しかしここでわたしが許せないシーンがある。バチェラーの両親を選ばれた女性がおもてなしするんだけど、その中の一人の女の人が自分の家族は両親が小さい頃に離婚しているという過去を話した。その後、バチェラーと両親3人で彼女の話をする。バチェラー父は「うちの家系・縁系に離婚をした家族はいないから減点だ。」と言う。カッとしたバチェラーは「俺はそんなの気にしねーんだファック!!」ってなぜか英語で怒る。

 

結婚する上で家系の流れみたいなのを気にする風潮は我が家にもあるけど「は?今平成ですけど?お前らはどこの貴族だ?」って感じだし家系に離婚した両親がいるかいないかなんて当事者の努力や判断で変えることのできないことを『減点』と言うのはまさに昭和の残飯って感じでめっちゃキレた。

 

最近は「差別」に関してのニュースをいろいろ見聞きするし、自分の考えもいろいろあるけど『自分ではどうしようもできないことを軽蔑したり批判すること』が、これがまさしく差別か!!!!とやっと言葉の意味がわかった気がした。

 

そうすると『自分ではどうしようもできないことを軽蔑したり批判すること』が差別だとしたら、わたしは小さな頃から差別を、しかもそれを身内からされていたことになる。背が低いことや姉よりも劣っていること。そもそも姉妹であれ、当時の両親の環境や3年のわたしでは知り得ない家族の時間があるのに、その『どうしようもないこと』を産み出した人当事者たちに責められるってめっちゃ意味わかんなくない?前世なんかしたの?

 

自分よりも具体的にハードな人生の人を見て(DV、虐待、離婚、など)わたしは辛くないと思ってたけど冷静に考えたら普通に辛いじゃん!別にハードルな人と辛さ競ってどうすんの!自分の辛かったことを癒すのが優先じゃん!めちゃくちゃ自分が深い怪我で血みどろになりながら自分よりも深い怪我してる人を見て「自分は怪我してない」と思わないよね?だってお互い怪我してるんだから「わあ、痛そう!自分も痛いからお互いよく治るといいな」って、それでいいんだよね。

 

こういう考えが巡ってまた眠れなくなる。バチェラーは誰か人と酒を飲みながらみるのにもってこいです。